2017年4月8日土曜日

おばあちゃんが亡くなって感じたこと

3月中旬に祖母が亡くなりました。

記事をストックしてあったので3/26までは更新出来ていましたが、その後3月末の多忙さに忙殺されて10日以上更新が滞ってしまいました。
予定外のことにも対応出来ないといけませんね。


さて、本題ですが、亡くなった祖母は父の母です。90才でした。

私自身の直系で親族が初めて亡くなりました。

なんか事務的ですね(笑)


小さい頃は両親が共働きだったため、また、妹が産まれた事もあり、私の面倒をいつも見てくれたのは祖母でした。

記憶の中の祖母は優しく、手を繋いで布団を並べ、昔話や歌い聞かせなど、寝かしつけてくれたことを今でも鮮明に思い出せます。

歌詞しか知らないので調べてみたら「一列談判」っていう手毬唄なんですね。

今思うとスゲー歌詞だなこれ(笑)

テレビ放送があった名探偵コナンの「迷宮の十字路」で「京の手まり歌」を見たばかりですからギャップがヒドイ。

「一番はじめは一の宮」も私今でも歌えました。

時代や地域色があるんですかね?祖母ver.だと

一番はじめは一の宮
二は日光東照宮
三は佐倉の惣五郎
四は信濃の善光寺
五つ出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つは成田の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の高野山
十で東京泉岳寺

です。

お手玉も教えてくれれば良かったのに(しみじみ)


祖母は十代のうちに嫁いだと思います。

祖父は10以上も年上だったはずですが、私の生まれる前、父がまだ若かった頃に亡くなっており、人柄を知る由もなく。

祖母は嫁いだ後、祖父が亡くなった20代の頃からずっと1人。

病床に伏せるまで、外に働きに出ることもなく、ほぼ自宅だけでその生涯を終えたと言っても過言ではないでしょう。

戦時中の専業主婦はみんなそんなものなんでしょうか。

母からは厳しく邪険に扱われ、晩年の祖母は家の中に居場所がなく、かといって外に遊びに出るタイプでもなかったため、本当に所在なさげにしていました。

母と祖母の口論を目の当たりにすることが珍しくもなくなり、まだ学生だった私は口を挟むべくもなく、自室で我関せずといったところでしょう。

私自身、学もなく、技術も持たない祖母を疎ましく思っていた節がありますし、また、祖母と口論している母も大嫌いでした。思春期ですね(笑)


祖母が変わったきっかけはよくあることです。

踏み台から転落し骨折。

自宅で半寝たきりになった頃から認知症を発症。

回復しないまま要介護度が上がり、自宅で療養が出来なくなって施設入所。

最終的には経管栄養のまま数年が経ち、肺炎で死亡。

みたいな感じでしたね。この間10年くらいでしょうか。


初期の頃は孫の顔は分からないものの、声を掛ければ返事はしましたし、父と私を間違えるなど、記憶は残っているんだなと思えたものです。

施設に入所してからは、ほとんど反応が見られず、私は嫌で二度と会いに行きませんでした。

いざ遺体を前にしても何の感傷も湧いてきません。

育ててもらった恩義は感じます。感謝の気持ちを少しだけ。

家から出た人間なんてこんなものではないんでしょうか。

入所してからもよく世話を焼いていた妹は、感傷的になっていました。

母も良く泣けたものです。これだから女ってやつは。


葬式で初めて会う親族の多いこと。覚えられませんって(笑)

意外だったのは親族に東京人は居ませんでしたね。

そういう引っ込み思案な家系なんでしょうか。


久しぶりに従兄弟たちとも会えましたし、亡くなった時期も空気読んでくれたのかな。

さ、仕事仕事。









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